それはまるで宝物のように


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振り向けば輝いていたあの日

小学生一年生の七歳児と、いっしょに下校したある日。

七歳児は、すこしつかれているように見えた。

一年生のわりにしっかりしたその身体でも、ランドセルはおおきくて重そうだ。不慣れな学校生活の重みも、つかれた様子に拍車をかける。いくら学校が大好きでも、まだ一年生になったばかりなのだから。

その姿を見て、わたしは「抱っこしようか?」と七歳児にたずねた。しかし、返ってくる答えは「いいよ、いいよ。自分で歩くから」というものだった。

そのとき、ある思い出が鮮明によみがえった。

それは、七歳児がまだ幼稚園に通っていたころ(つまり六歳児だったころ)。

それは、卒園間近の思い出。

六歳児は、幼稚園に送っていくときに、ある場所まで来るとかならず「だっこ」といって抱っこをせがんだ。わたしは、毎日の送り迎えによる疲労と、抱っこするにはやや重たい六歳児の体重を考えて、すこしため息がでた。しかし、卒園すると、こうやっていっしょに歩くことも少なくなるだろう。そう思い、力をふりしぼって抱っこした。

抱っこをせがむときの六歳児のまぶしいほどの笑顔、触れあう肌から伝わる六歳児のぬくもり、全身にのしかかる六歳児の重み。すべてがなつかしく輝いている。

わたしはジワリと浮かびそうな涙をこらえて、重たいランドセルを背負いながらとなりを歩く子ども見る。

あのときの六歳児はもういない。
ここにいるのは、自分で歩くことを知った、成長した七歳児だ。
あのときの六歳児はまだいてる。
わたしの心にいるのは、抱っこで共に歩む、すこし甘えん坊な六歳児だ。

あのときの六歳児のまぶしいほどの笑顔、触れあう肌から伝わる六歳児のぬくもり、全身にのしかかる六歳児の重み。

そのすべてが鮮明に。
そのすべてがずっと。

わたしの心にある、大切なものをしまう箱のなかに。

〜Fin〜

番外編『それはまるで悪夢のように』

これはすべて実話である。

成長とともに姿を消し、まるではじめから存在しなかったようにふるまう、悪夢のような実話……。

今日も明日も終わらない寝かしつけ。
未来永劫つづく呪いのようなイヤイヤ攻撃。
ちぎっては投げ、ちぎっては投げられる離乳食。
おむつを替えた直後をねらいすましたかのようにとびだすう〇ち。
通じるようで通じない恋愛映画のようにもどかしいコミュニケーション。

わたしはジワリと浮かびそうな涙をこらえて、悪夢のようなこれらの過程をとおりすぎた七歳児を見る。

ひとりで寝てくれる。
ひとりでトイレに行く。
ひとりでごはんを食べる。

嗚呼、なんて楽チンなんだろう。
成長するって、いろいろステキ。

ビバ! 成長。

これはすべて実話である。
そっとしまっている実話。

わたしの心にある、本音をしまう箱のなかに。

晴れた日も、曇った日も、素敵な一日をあなたに。

本を出版しました!

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とし
主夫で育児メンで小説家でアプリ開発者でアプリ開発講師でアプリ開発本執筆中でLINEスタンプ作者でブロガーのとしです。 このブログは、タイトル通り晴れた日も曇った日も人生を充実させるちょっとした楽しさを取り上げます。それが少しでも誰かのお役に立つ日がくれば幸いです。

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